現役起業家が起業準備中に感じた心の底の本当の想い

今ではバリバリ現役起業家として活動する人も最初は何から始めたらいいかモヤモヤしていました。でも心の奥底にはこんな自分になりたい!だから起業するんだ!という想いがありました。ここでは独立起業して2~4年になる現役起業家のリアルな胸の内をご紹介します。

39歳子供の頃から大好きだったアウトドアを仕事に変えた人

お店で売ってるものって、店の人が売りたい物なの?それとも、お客さんが欲しい物なのかな?”何時の事だったかはとうに忘れましたが、子供の頃、ふと疑問に思ったことがあります。
 
ガキのくせにエライ小難しいことを考えたもんだと今になって思いますが、これが自分の独立起業の芽だったかもしれません。大学を中退し、初めて社会に出て(と言ってもフリーターです)着いた仕事は、TV局の報道のカメラクルー。ゼネコン汚職、阪神大震災、オウムサリン事件と、大きな事件に社会が見舞われていた頃のことです。
 
普通の人が立ち入ることが出来ない現場や、歴史的な場面に立ち会えることが刺激的で、21歳の自分には面白い日々でした。しかし、演出と言う名のヤラセや、編集とカメラワークによる情報操作、ニュースという名の商品。正しいこと、人々が知るべき事実を伝えるのが報道だ!等と、青臭いことを考えていた田舎の少年は、ビジネスとしてのTVの実態を知りました。そうして数年後、TVの世界に見切りをつけます。
 
”正しいことをしたかったら、エラくなれ”映画の踊る大捜査線の中で、いかりや長介演じる和久さんが、主人公の織田裕二に言ったセリフです。TV局を辞めた後、幾つかの会社で働く内に味わった、利益を追求する企業側の立場と、顧客側の想いの間に立つ現場の社員の苦しさ、難しさ。喰っていく為だけに、こんな仕事をし続けられるのか?という疑念が常に付きまといます。
 
ニュースでも品物でも、売れる商品と、本当にお客さんのためになる商品は違うという現実を飲み込むことが、どうしても出来ませんでした。そんな時、和久さんの言ったセリフが、腑に落ちました。企業の歯車として生きる生活の中では、自分の裁量で動かせるものなど、ほんの少ししかないのだ。ならば、自分が良いと思うモノを売って、自分の納得出来る金の稼ぎ方をしよう。そして、誰にも命令されず、誰へも命令することの無い仕事をしよう。そう考えたのが自分の起業への本格的な始まりでした。
 
獣や魚を狩ってくることができなければ、飢えるしかなかった古代の生活。現代の社会でも、金を稼いでくる=獲物を取ってくるということですね。会社に勤めていても、個人で仕事をしていても、リスクは同じ。ならば、自由に1人で狩猟者として生きていく方が合っている。そう思って今、動き出し始めています。(2012.9)
 

46歳安住の公務員から経営者になった人

数年前からモヤモヤしていた。警察という大きな組織の中の歯車として生きることに・・・。何かひとつのことを決めるのも上司への決裁、その上の上司にも決裁・・・。自分ひとりで決められることなんてほとんどない。それが組織というものだから仕方ないが・・・。こんな風に一生、組織の歯車として生きていくのが正しいのだろうか?
 
私は小さいころはガキ大将で常に子分を連れて遊んでいた。小学校時代は学級委員長や生徒会長をやり、中学時代は野球部のキャプテン、高校はイマイチ目立てなかったが元々人の上に立ち、まとめるのが好きなタイプだった。警察に入ってからは勉強に勉強を重ね、回りよりもかなり早い35歳で警部になり、警察署の刑事課長をした。当時の部下は50代と40代の係長を筆頭にほとんどが年上だったが、事件が発生すると頭をフルに使って指揮をとるのが何よりおもしろかった。問題が大きければ大きいほど能力を発揮していたように思う。
 
高卒で警察に入った私はなんのスキルもなく、特別な能力もなく、そもそも警察しか知らなかった。もし職を変えるなら「起業」しかないと思った。転職じゃなくて起業。なんたって自分の好きなように仕事ができたらおもしろいじゃないか。成功しても失敗しても自分の責任。「リスクもあるけど綱渡りのような危ない生き方の方が自分に合ってる。」そう思った。
 
昨年始めから職場に黙って起業のセミナーや勉強会に参加し始めた。いやいやみんな目の輝きが違う。前向きでおもしろい。人生の半分を公務員、残り半分を実業家、こんなおもしろい人生もいいじゃないか。警察辞めて起業しよう。3.11東日本大震災であの夜から福島県に飛び、現地の荒廃した町を見て、行方不明者の捜索活動を指揮した壮絶な体験も自分の気持ちも大きく動かした。
 
昨年8月末に警察を退職。周囲の知人は「この時代に公務員を辞めるなんて凄いよ。思い切ったね。なんで辞めたの?」そんな声ばかりだった。「刑事より、警察より、起業の方が刺激的でおもしろいから。」そうしか答えようがない。傍から見れば「刑事の方が刺激的じゃないの?」と思われるかもしれない。でも、そもそも公務員には生活の不安がない。そこがある意味おもしろくない。極端な話、犯人を捕まえなくても飯を食うには困らない。だから正直危機感がない。結局、ぬるま湯。
 
もちろん正義感や使命感で仕事はするが、どっかに甘えがある。警察だけじゃなく、公務員はみんなそうかもしれない。でも起業したらそうはいかない。仕事をとらなければ、仕事がなければ食うに困るわけだ。だから必死になる、知恵も出す、必死さが全然違う。だからおもしろい。起業するにあたり嫁さんに「将来の夢」を聞いた。「公務員では叶えられない夢を三つ言ってくれ」と。
 
しばらくの間考えた嫁さんはこう言った。「外車に乗ってみたい」「世界一周旅行に行きたい」「お手伝いさんがいる生活がしてみたい」と。「よし、何年後かわからんがそれを叶えられるように頑張るよ。必ず実現してやるから。」そう言って約束した。嫁さんの夢を自分のモチベーションにするためでもあった。
 
たまに知人が「あなたはすごいよ。すごい決断をしたよ。」と言ってくださる。とんでもない。すごいのは嫁さん。公務員で普通に働いていれば安泰な人生だったのに、こんな無茶な挑戦を許してくれた嫁さんがすごい。宝船なのか泥船なのか、どこに辿り着くのかもわからない船での航海に付き合うことを決意した嫁さんが一番すごいんです。だからその期待に応えなければならない。簡単に船を沈ませるわけにはいかないのだ。まぁ嫁さんには「失敗したらマンション売ってさ、三畳一間、家賃3万円のアパートで生活始めるのも楽しいんじゃないの?セブンイレブンでバイトでもしてさー。」と言ってあるけれど(笑)
 
1月25日、正式に会社をオープンして私の挑戦が始まった。頭の中は仕事のことでいっぱい、寝ても覚めても仕事の事が頭に浮かぶが、苦痛はない。毎日頭をひねりながらワクワク。自由な発想、自由な時間、自由な行動、たまらなくいい。これからは起業の時代。組織に依存する生き方は淘汰される。さぁ、あなたもこちら側にきませんか。私は少し先でみなさんをお待ちしています。(2013.2)
 

38歳後悔しない人生を選んだ人

後悔する人生と、そうじゃない人生、どっちが良いの?半年前、私はあるセミナーに参加していた。そこで出会った経営者に言われた一言だ。初対面で、いきなりこんなことを言われるとは思わなかった。この経営者の方と名刺交換をしてから、色々とアドバイスを頂いたが、全て合わせて5分も話してない。しかし、私にとって、この出会いとアドバイスによって、心のスイッチが入った。
 
良く考えてみると、今までにも、多くの人から同じような質問をされたこともあるし、本やセミナーでも同じような話を聞いたこともある。同じ言葉、同じ内容でも、タイミングによって受け取り方が全く違う。この時は、自分にとって最高のタイミングだったのかもしれない。そして、後悔しない人生にするために、今までだったら絶対やらないようなことや、いつもと違うことをやったりするようになった。物理的に変えられないことは、考え方を変えたりした。
 
すると、少しずつだが自分の行動が変わった。思考が変わった。出会う人が変わった。日常が変わった。そして、何よりも結果が変わった。最近は、まさにそんなことを実感している。前置きが長くなったが、こんなことがあり、本気で自分のビジネスを立ち上げて、展開していきたいと思うようになった。私のやりたいことは、それは、営業を軸にしたサービス。コミュニケーション、売上向上、マッチング・・・しかし、漠然としすぎていて、よくわからない。それに、具体的に何から手をつけたらよいかもわからない。気持ばかりが焦ってしまう。
 
しかし、自分だけで悩まなくても、誰かに相談すれば解決できる。解決できる人に協力してもらったり、他の人の経験や知識を、うまく活かせれば、何だってできる。そんなことを思っていたら、ある人から団長を紹介され今日に至る。先日、2回目のセッションを受けた。お陰で自分の方向性がかなり明確になってきた。そして自分自身へのワクワクが日に日に強くなってきた。これからの自分に期待して、人生を楽しんで行きたいと思う。皆さんと、色々なことをシェアし、良いことも悪いことも指摘しあうことができると嬉しいです。(2012.11)
 

44歳大病の中で見た心の感動を仕事に変えた人

幼い頃から乗り物が大好きでした。高校に入ってから友人が部長をしていた写真部へカメラを安く譲るからと誘われ入部! 自分自身のカメラを持ったことが嬉しくていろんな物を撮ったりしていました。元来乗り物好き!その頃は戦闘機にはまっており、全国の基地を周ったりしていました。(ちょっとミリオタか(笑))大学を卒業して社会人に!バブル真っ盛時代で、就職に苦労する事もあまりなく・・・、車が好きで車通勤できるとの理由で自動車関係の会社へ入社。社会人となって特に問題意識もなく普通にサラリーマン生活を。仕事は人事で新人教育をしたり、現職では営業職へ!
 
35歳で結婚!幸福な結婚生活でしたが・・・胆石があるとの事で手術することになりました。父親も胆石は取っているので、深刻な気持ちはなかったですけどね。手術してもらったのはベテランの先生だったし不安はなかったです。手術は成功したのですが血液検査をしたところ、医師から「血液の病気があるんじゃないか?」といわれました。
 
その後、38歳でなぜか内臓を圧迫しだした脾臓をも摘出する事に(涙)。お腹を30センチも切ってこれでよくなるかと思ったら、「明日家族を呼べますか?」と言われて・・・なんなんだ??と。家族を呼ばれて言われたのは血液のガン「悪性リンパ腫です」と・・・血液専門の病院へ転院をするようにと・・・。予想外の展開に景色が灰色になったのを覚えている。血液のガンは「白血病」!が有名ですが、自分はものすごく恐怖を感じた。子供の時に見た映画で「ジョーイ」という白血病で亡くなってしまう子供が主人公の映画が強く印象にあった。ほかに夏目雅子さんや本田美奈子さん・・・。とにかく強烈だった。
 
血液ガンの確定診断は難しい!大学病院で調べてもらい自分は医師から説明を受けて転院できる病院を決める事になった。しばらく待機している時に種別診断が難しいのでその世界で有名な国際的に権威ある先生に見てもらう事となり、最終診断結果がシロでしたとの連絡が・・・。今まで見る景色に色がなかったのが色が鮮明に戻ってきたのを覚えている。その後も自分なりに必死に情報を得た。手術後から2年がたち、仕事もハードだし疲れもたまっていたある日、身体の異常を感じて嫌な予感とともに病院へ。確定診断が出たわけではなかったけど、自分なりに勉強していたし覚悟はできていたつもり。高熱が続き即入院となった。よもや、もしやという気持ちとの試行錯誤もあったが、例えガンでも軽いだろうと思っていた。
 
結果は4期Bという予想以上に悪い結果で生存率を聞いて、聞くんじゃなかったと後悔した。大学病院の医師団の適切な判断によって即抗がん治療に入った。約1年かけて限界まで投与を行い、その後は骨髄移殖をするように勧められた。だけど移殖は家族とも相談して自分の判断で断った。父の友人でラジウム温泉療養によって同じ病気を20年以上も前に直した人の話を聞いたことによりその温泉療養に賭けてみる事にした。医師からは、何度も何度も移殖をしないとダメだと言われたが自分の命は自分で責任をとるしかないのだと思った。
 
福島にある温泉療養所には自分と同じような病気の人が大勢いた。次回また会える保障がない人達。 同い年で友達もできたり、たがいに励ましあう人もできた。そんな人達に自分は何かしてあげられる事はないか?と思った。ある時 施設の前に大きな虹がでた。もっていたコンパクトデジカメで撮影してプリントしてみんなに配ったら元気がない人たちまでもが喜んでくれた。休職期間が切れるギリギリで元の職場へ復職することができた。仕事があるだけでもありがたいこと。だけど、何かが違うような気がした。景気が悪いし大変なのはわかるんだけど何かが違う。・・・そんな時に自分の撮った写真ですごく喜んでくれる人たちがいた事を思った。
 
天職塾に入ったのは昨年の6月。ここから凄いスピードで何かに背中を押されているような感覚がある。何よりも皆さんと出会えたことが凄く大きい。「出会いは偶然じゃなく必然」というけど本当にそんな気がする。みんながキラキラと輝く目をしている。そしてこれから1年後、自分が経験してきた事を忘れることなく、下を向きがちな人達に元気や暖かい気持ちになってもらえるような仕事ができていれば嬉しい。自分が撮った「写真」じゃなくて「写心」を通じて会話ができるようになれば嬉しい!ありがとうございました。(2013.1)
 

25歳子供の頃から描いていた起業を実現した人

子供の頃は、生徒会で学校のイベントを企画・運営したり、ステージに立ってスピーチをしたり、”長”になって人をまとめたりする活動が好きでした。また、私が10歳の頃に両親が離婚し、毎日昼夜働いてくれている母を見て「早くラクさせてあげたい」という思いと「将来は独立してたくさん稼ぐ!」という思いが自然と湧いていました。
 
ただ、世間知らずな子供なので(笑)、独立して稼げる職業と言えば「医者」か「弁護士」しか思いつかず…。親の体調も心配だったので「よし、医者だ!」と思い、その頃から高校まで一心不乱に医学部を目指します。そして実力及ばず受験失敗。大変親不孝ですが、頭を下げてもう一度だけチャンスをもらい、予備校などはとても行けないので、バイトを掛け持ちしながら自宅で勉強しました。
 
この18歳の頃ようやく、自分を冷静に見つめ直し、改めて将来について考えました。すると、元々の目標は「医者」ではなく「独立してたくさん稼いで、親をラクさせること」だったことと、自分が「経営」というものに興味があることに気づきました。学生時代は勉強を通じて「考え方や行動が間違っていなければ、努力した分の結果は必ずついてくる」ということを学びました。
 
その後、無事大学に合格しますが、学費の工面などの理由から21歳の時に大学を休学。そして選んだ仕事は、完全歩合制の訪問販売の仕事(業務委託)です。報酬額が魅力だったことと「完全歩合制なら努力した分稼げるはずだ」と考え即応募。すぐに営業活動を開始しました。
 
初月は報酬20万円分の契約がとれました。学費のためにアルバイトを複数掛け持ちしても20万円も稼ぐのは大変だった頃なので、自分で営業の場所やルートやスケジュールを決めて、好きなタイミングで食事をとって、努力と実力に見合った報酬が返ってくるなんて、こんな楽しいことはないと思いました。
 
「今月はもっと稼ごう!色々工夫してみよう」とやる気を奮い立たせていたところ、(業務委託の中で一番若輩者で、一応やる気に満ちていたからだと思うのですが)「正社員にならないか」という話をされました。「完全歩合制・業務委託」という点が楽しくて仕方なかったので一度断ろうとしたものの、「将来起業するなら、正社員としての経験も必要なはずだ」と考え直し、正社員の道を選択。あとで後悔するとも知らずに…(笑)
 
全然珍しい会社ではないと思いますが、社員に超過労働を強いる会社だったため、毎日朝家を出て、深夜過ぎてから帰宅する生活に。「週休2日」のはずが、すぐに「隔週週休2日」→「週休1日」→「会社に”休み”を預けてくれ」となり(笑)、心身ともに調子を崩していきます。業務委託のままであれば、月40~50万円になる契約件数になっていたので、正社員になった意味があったのかどうか、ひどく後悔しました。(今となっては、必要な学びの機会だったと思います)
 
そこで改めて思いました。正社員…安定とは言うけれど、会社に雇用されて会社の都合やしがらみの中で働き続けながら、ポジティブで幸せな人生にできるのだろうか?会社に雇われていれば、本当に安心なのだろうか?リスクがないのだろうか?簡単なことではないかもしれないけど、独立して、自分の好きなこと・得意なこと・面白いこと・ワクワクすること等をして、楽しみながらポジティブな気持ちで仕事をしていく方が自分も周りの人も幸せにできるんじゃないか。誰かの役に立てたり、誰かを幸せにできるのであれば、努力や行動した分の結果は必ずついてくると思うし、生活に困ることはないんじゃないか。本当に少なく限られた経験しかしていないのですが「やっぱり起業だな」と感じてしまいます。
 
転職後は労働時間が半分になって給料が1.5倍になり、休みも毎週必ず2日ありました(涙)心にも時間にも余裕が出て、独立に向けた自己投資として、休日にWEBスクールへ通い始めます。それから二年近く経ったのち、独立することとなります。大学生の頃から、実現したいことや計画を手帳に書き続けていますが意外と実現します!常に目標を意識して邁進することは大事だなと思います。独立起業。私にとってこれほど面白いことはないです!一度きりの人生、独立でさらに幸せになって行ける道を見つけて進んで行きましょう!(2012.11)

41歳誰もが知る大手企業から起業を志した人

東日本大震災が起きる4日前の月曜日の朝、通勤電車の中で突然「夢」が醒めた。「もし今日辞表を提出するとすれば?」という問いが一瞬頭をよぎったのだ。なぜそのような問いが出てきたのかわからない。稲妻のように頭に突き刺さった。答えは、「何も準備できていない。」体中からサーッと血の気が引いていくのがわかった。電車内の周囲のサラリーマン達が急によそよそしく感じられた。
 
現在の会社へ入社して17年。ずっと起業の夢を見ていた。そしていつか起業したいと準備をしてきた。だけど、してきたことは準備だけ。言ってみれば、好きな子に渡すラブレターの用紙と封筒を買っただけの状態。何も書いていない。ポストにも入れていない。手渡しもしていない。なにもない状態で、その子とつきあう姿を妄想して満足している自分がいた。起業の夢ばかりを追いかけ、現実にどうすればその夢が実現するのかを真剣に考えてこなかったのがわかった。
 
この問いにより、入社して17年間ずっと夢見てきた甘い「起業」の「夢」がバラバラに崩れ去った。10年以上前。私は社内でITベンチャーを設立するプロジェクトに応募した。約1年におよぶ事前調査を経て、新会社を設立した。リーダーが社長となり、私は実質ナンバー2。しかし、社長とはインターネットに対する考え方がかみ合わず、いつしか口もきかなくなってしまった。結果的に自分が加担して作った会社で孤立してしまうことになったのだ。
 
もし、本当にやりたいのならナンバー2ではなく、自分自身がナンバー1になる必要がある。そして社内ベンチャーでは、ナンバー1にはなるには難しい。こんなことを思いながら、一人で会議室にこもって悶々とした時間をすごしていた。そのときに思いついたのが、現在も個人で運営しているイラスト、ハンドメイド作品、音楽などの創作物を個人で販売できるフリーマーケットスペースだった。
 
さっそくデータベースソフトとTMLをみ合わせてサービスを始めてみたところ、すぐに作品を出品したみたいお客様が集まった。集まったのはいいが、手作業のWEB更新に限界が出てきた。その頃には部署も変わり、更新の時間もとれなくなってしまう。また、販売単価が100円程度と単価が低く、そこに販売手数料を取っても微々たる収入にしかならない。これを解決するには、販売数を増やすしかないのはわかっていたが、その頃は本気で起業についてあまり考えておらず、安易な副業としての道を探していた。
 
このときちょうど週末起業ブームがあり、私も何回か雑誌の取材を受けたり週末起業家の本に出させてもらった。しかし、副業という道を選んでしまったがゆえに運営に「甘え」が出始めてきた。そのときの気分によって更新がおろそかになったりしてきた。いつしか販売手数料をとることもやめて全部無料にした。いかに楽に時間をかけずに運営するかを考えるようになってしまった。それと共にお客様も減っていき、アクセス数も下降傾向。そんな中にいても、起業したいという「夢」だけは持っていたが、現実を伴わなくなってきていた。
 
そして、この悶々とした状態のまま2011年の夢の崩壊に至るのである。サラリーをもらっているけれど、会社の仕事は嫌でたまらない。でも、すぐに起業するにはあまりに準備不足だ。家族を養う必要もある。なにかを変えなければならない。今すぐに。焦りばかりが毎日積もっている。ナンバー2ではやりたいことはできない。自分の資本で自分の力で作っていかなければ、結局は人の下におかれてしまう。そのためには、今なにをするべきか?
 
そう思って飛び込んだのが天職塾だった。天職塾では起業準備のための考え方や様々なテクニックや手段を教えてくれた。たくさんの同志に会うことができた。ここで得たことは、起業したいことを他人に話すことができたこと。今までは一人で悶々と抱え込んでいただけだった。この延長線上で家族に起業したい旨を話し理解を得ることができた。天職塾では、勉強会を開催したり、Facebookページを作ったり、ブログをまめに更新したり、できることはなんでもやってみた。周囲でも様々な成功例が出てきて大変刺激になった。
 
でも、大切なのは自分が実現したい事業のこと。どうやって収益化していくかという次の課題が見えてきた。そして今、次のステップに移行する段階に来ていると感じている。それは、具体的なお客さんの姿をカラーでイメージできるまで事業モデルをブラッシュアップすること。自分自身が納得できる事業計画を作ること。そして、この計画書をベースにして様々な試行を繰り返し収益を確立すること。2013年1月に事業計画書ver.1を完成させ、2月からはこの計画書をロケット発射台に見立てて、事業が無事宇宙旅行できるように様々なテストを実施する。意識するのは、発射だけではなく無事に旅行できるかどうかである。(2012.12)
 

27歳物心ついたときからの犬の存在を仕事にした人

◎犬
僕の人生に最も影響を与えているのが「犬」の存在です。ものごころが着いた時には家に犬がいて、同じ布団で寝起きしていました。大学はアニマルサイエンス学科というところに進み、犬などの動物と人間との関係を学び、仕事も、ペット用品専門商社、犬用のケーキや食事を売るお店と、犬に関わる仕事を選んできました。東日本大震災後は、飼い主さんと暮らせなくなった犬たちを預かる保護施設での管理スタッフも経験しました。
 
◎起業
「起業」ということを初めて意識したのは、大学の頃でした。当時、一緒に暮らす犬の食餌を作ることに凝っていて、「これが仕事にできたらな~。」と思ったのが、最初だったと思います。でも、結局、世間の流れに乗って、みんなと一緒に就活して、就職しました。
 
二度目は、犬用食品のお店をやめる直前。「仕事」というものに対するモヤモヤと体調不良が重なって、休職していた時。その時、大学の同級生の紹介で、三宅さんとお会いしてお話を聞いていただいて「起業」というものを初めて現実に感じました。それまで働きながらも「起業したい」とはなんとなく思っていたものの、もっともっと遠い先のことだと思っていました。その後お店を辞め、三宅さんのお手伝いもいただいて、起業に向かっていたのですが、東日本大震災が起き、ボランティアや保護施設で働いているうちに、また「起業」はどこかに仕舞いこんでしまっていました。
 
そして、三度目は今。仙台に戻ってからも、お知り合いの犬の誕生日にケーキを作って、お小遣いを頂くようなことはしていたのですが、ひと月ほど前から、開業支援セミナーに参加していて、再び、「起業」に向かって勉強しています。
 
◎これから
僕の実現したいことは、「もっと犬たちに幸せに暮らしてもらうこと」そのために「犬に関する知識・感覚を得る場所」と「人と犬とが交わる場所」を作ることです。犬に関する仕事をしてきた中で感じてきたのは、飼い主さんの知識の少なさ。犬の習性や病気の予防、マナーなど、知っておくべきことを知らない飼い主さんがたくさんいます。そんな飼い主さんたちが知識を得ることができ、他の犬や飼い主さんたちとも交流できる空間を作りたいと考えています。
 
具体的には、人にも犬にも食事を提供できる料理店。人も犬も集める力のある「ごはん」、その「ごはん」を入口にして、犬に対する思いを見つめ直してもらえるような場所を。まず、1年後の目標は、小さくてもいいので、きちんと開業して、自分の思いを伝えられるお店を持つこと。ここを目標に進んでいきたいと思っています。
(2013.7)
 

46歳会社員をしながら自分の原点から起業準備する人

僕は仙台の下町で育った。こどもの頃、田んぼにはホタル、広瀬川にはアユが泳ぎ、夜空には天の川が輝いていた。今では全く見る事ができないが・・・あの頃の原風景が、自然という八百万の神々が今の僕の根っこになっている。応えは、自然の中にある。そんな思いになったのもつい最近の事だが、自然は、共生・循環・バランスで成立っている。僕が、物事を考える基本も、共生・循環・バランス!自然が人間に対してそうであるように、否定することなく、混在の中で全てを受け入れる。そうありたい。されど、強風も吹き荒れる。枝葉も大きく揺れ、折れてしまう事もあるが、見えない根っこが、大地にしっかりと根を張っていれば大丈夫!また芽が吹いてくる。
 
現代人は、自然から掛け離れ過ぎて、根っこを張らずに、先に花や実ばかりを追い求めているのではないだろうか?もっと、もっと、根っこを張らねば!そして、僕らに、何ができるのか?次代のこども達に何を語伝え、何を遺せるのか?そのためのイノベーションを起こさねば!「自然」を通して、「農」を通して、「食」を通して、競争から共創ヘ、進化から真価を目指して!まだまだの自分がそこに居る。僕が好きな言葉「財を遺すは下、事業遺すは中、人を遺すは上なり。されど財なくんば事業保ち難く、事業なくんば人育ち難し。」明治から昭和初期にかけての医師・官僚・政治家であった後藤新平が死ぬ間際に残した言葉だ。最後は「人」を遺したい。これが僕の新たな根っこかも知れない。(2012.9)
 

31歳大好きなことを仕事にハイブリッドキャリアをはじめた人

オンラインダーツショップ「DARTS STAR」と「大人のためのダーツ練習会」を運営しています。私は前職で、某医療系独立行政法人で事務の仕事をしていました。国家公務員試験を受かって入りました。配属当初は外来係というポジションで、お客様の対応や、ちょっとした調査物やアンケート、書類の作成など行っていました。委託で雇っている方の取りまとめをするような仕事でもありました。正直このポジションは私にとってなかなかキツイと感じることが多かったです。そもそも、医療事務を経験したこともない人間が医療事務(委託や派遣)の人を取り仕切るようなポジションになることが無理がある、と感じていました。管理者は管理する人の仕事をよく知っている必要がある、という当たり前のことを学んだ気がします。
 
その後ポジションが変わります。それは、契約係(用度係)に配置換えになったからです。この仕事は院内で必要な一般消耗品(鉛筆1本からエアコン・プリンターなど)を外部から購入し、それを届けてあげる仕事です。あとは、ほかにも数十万円までの修理を行っていました。外来係に比べると、妙なプレッシャーは少ない仕事でした。ただし、仕事量は結構増えて、事務職の中でもトップクラスに忙しい係であったと思います。出入り業者の方(事務用品・電器屋・修理屋・印刷業者・衣料業者)などいろいろな業種の方と話したり、取引する機会にも恵まれました。
 
なぜ、ダーツを仕事にしようとしたのか?については、ひと言でいってしまうと好きだからです。ちょうど公務員試験合格後に出会ったのが、ダーツでした。その後、休みの日や仕事の後に仕事のウサ晴らしも含めて(笑)、よくダーツを投げていました。仕事で気持ちがつまらない時も、仕事帰りにお気に入りのダーツショップに行って、興味のあるダーツグッズを物色している時などは、嫌な気分から解放されたのを覚えています。俺の居場所だと思いました(笑)
 
公務員当時、取引の多かった電器屋は、電器屋であるにも関わらず、あらゆる事務用品(鉛筆、洗剤、衣類、机、家具など)の納入や修理(家電品はもちろん、工事まで)行っていました。もちろん、物を売るのがメインの業者ですが、それ以上に依頼側が心から望むサービスをしてくれた事を覚えています。つまり、面倒くさい仕事を率先してやって頂きました。
 
どうしたら、取引相手がもっと楽をできるか。どうしたら買い手が悩ましいこと、馬鹿馬鹿しいことに時間を割かず、楽をできるか、もしくは他のことに時間を割けるか。その電器屋は私のビジネスの一番のお手本です。ただ物やサービスを売りたい、そして売ったら後は勝手にどうぞ、というスタイルでは商売は上手く行かないと思います。私自身、そのような業者とはなるべく取引しないようにしていました。
 
そのような考えもあり、わたしはダーツグッズをもちろん売りますが、ダーツの上達をサポートするレッスン(練習会)も小規模ながら行います。ダーツ練習会ではダーツ初心者・上級者が一緒に集まって練習する場を提供し、ダーツ・レッスンでは主に初心者・初級者向けにダーツの基本をアドバイスさせて頂きます。つまり上達するための道具と、ダーツ競技の基本的な技術教授を含めた、長期的なサポートを行います。団長を初め、天職塾の方にもお世話になり良い影響をいっぱい貰っています。(2012.11)
 

26歳自衛官を卒業し新たな道を切り拓いた人

来週12月20日、長年育ててもらった自衛隊を卒業することにしました。もともと私は自衛官になるつもりはなく、中学生のときは「大企業の社長になり、大金持ちになって、じいちゃんばあちゃんに贅沢させる」という夢を抱いていました。
 
そして15の私は、自衛隊のエリートになることが夢への近道だと考え防衛大学校への入学を目標に、自衛隊の高校に入学しました。(少年院のような生活が待っているとも知らずに入学後すぐに銃を渡され、走らされ、怒鳴られ、私物は捨てられ、暴力も日常茶飯事。どんなに急いでも間に合わないタイムスケジュールなため、必ず怒られる仕組みになっていました笑。今考えると馬鹿らしいですが、当時は死に物狂いでした。
 
夕食を食べるか、入浴するか、どちらかしかできないため、ロッカーにはカロリーメイトを買い溜めしていたことを思い出します。1年生の頃は外出もできず、電話もない閉鎖された状態だったため、外の世界ではもう車が空を飛んでいるんじゃないか、と真剣に心配したほどです。
 
高校は当時入学倍率30倍近くあり、入学当初の学生のレベルは神奈川県でもトップクラスのようですが、卒業時には県内で最低レベルまで落ちます;笑 そのため私は周りのみんながアホになった隙を狙って、250人中3人しか行けない防衛大学校に推薦入学することができました。
 
大学時代も1年目は奴隷のような生活で、2,3,4年生の理不尽にただただ耐える日々でした; 掃除・洗濯などはもちろんのこと、韓国にキムチを買いに行かされる友達もいました。私はといえば遅れた反抗期を迎えていたため、同じ高校出身の同期と一緒に校則違反をしたり、反抗的な行動をとっていたため、教官・先輩に目を付けられていました。(大それた悪事は働いていませんが)振り返ると、案外この反抗期に学んだことはとても大きな財産になっています。
 
大学卒業後は、いくつかの学校教育を経て、現在の部隊で勤務することになったのですが、この部隊勤務の中でも多くの学びがありました。私は部隊に配置されて、右も左も分からないまま、とにかく前へ前へ進むことに必死になり、周りの隊員のことを考える余裕を失っていたのです。そんな余裕のない日々が続いたある日の訓練中、一生忘れることのできない事故が起きてしまいました。
 
私の直属の部下が目の前で自ら命を絶ったのです。当時の部隊の空気は、何とも表現し難い状態であり、その後、私の心も弱り、それまでは耐えられていた上司の日々の指導に耐え切れなくなり、やる気を失い、乱れた生活を送った時期がありました。
 
そんな経験を通じて感じたことは、「世の中には、同じように精神的に苦しんでいる人が大勢いる」ということです。自分自身がそのような経験をしなければ他人の病気を理解することは出来なかったと思います。。世の中をよく見渡せば簡単に気付くことなのですが、私はそれまで見て見ぬふりをしていたのだと思います。
 
高校・大学時代にもそんな仲間を何人も看取り、家族や部隊の中にも鬱で苦しんでいる人がいたにもかかわらず、本当の意味ではその存在に気付いていなかったようです。
 
今、東北の被災地やあらゆるところで、心の限界を迎えている方が少なくないと思います。病気になるほど悩み、苦しんでいる方々を何とかしてあげたい、と心から思います。しかし、私にはそういった方々を救えるほどの器量も力もありません。今はただ、夢を追いかけ、力(知識・経験・お金)を付けることが大切なことだと感じています。そして、力を付けた時こそ、真に世の中のためになることができるものだと思っています。
 
今後の活動としては、来年3月までに宮城県石巻市網地島という離島に移住し、島の復興のために観光業・農業・漁業の分野で起業しようと考えています。詳細はフェイスブックの投稿に載せていますが、震災の影響により『原点』に還ったような島なので、起業を目指すみなさんにとっても魅力のある島だと感じています。
 
なんにもないからなんでもあり!という感じです。イベント、メンタルケア、アウトドア、ITなど、いろんなことに向いている島だと思います。これから動き始めるという状況なので今のところ有益な情報は提供できませんが、来年の観光シーズンまでにはある程度環境を整えて、みなさんにとってイイ情報を提供できるように頑張ります。(2012.11)