フリーエージェントアカデミーに至る三宅哲之の52年

人見知りで大人しい幼少期

1964年2月29日、広島の県病院でこの世に生を受けた。閏年生まれはその後、格好の自己紹介ネタになった。父親が公務員で生まれてしばらくすると山口に引っ越しした。幼稚園までの記憶は定かではない。今でも情景が思い出されるのは、父親の自転車に乗っていたとき。ハンドルに取り付けた椅子に座って前輪に足を巻き込んで擦りむき痛い思いをしたこと。なぜそれが思い出せされるのかはわからない。もう一つ、幼稚園の頃、自宅宿舎の裏かその先にあった自衛隊の射撃場で砂を積み上げた中からヤッキョウを衣装懸命拾っていたこと。家の中にいるより、草っ原とかそういう場所で外遊びするのが好きだった。
 

内向的な小学低学年

小学生になって広島に転校した。公務員の集合住宅で毎日毎日日が暮れるまで遊んでいた。廃棄物を集めた山の中からガラクタを拾ってきてアジトをつくったり、化学実験と称して混ぜ合わせたりしていた。カード欲しさだけでスナック菓子を捨ててしまうことが問題になった仮面ライダーカード集め、コマ回し、貝割りなど昔ながらの遊びが懐かしい。当時大好きだった秘密基地づくりを思い出すと、誰かにも干渉されずに自分の世界をつくっていくことに興味があったことが今になって気づきになった。
 
いとこの家から犬の首輪を無断で自宅に持って帰ったときは、こっぴどく叱られた。理由は僕がウソをついたこと。無断で持ってきたことを素直に言えず誰にでもわかってしまうようなウソをついた。この頃はよくウソをついていた。ひとえに厳格な父親が怖かったから。怒られるのがいやだったから。成績が悪いと正座でビンタされた。ちょっとしたいたずらっぽいことをすると怒られる。父親は保護観察官という仕事柄か、自分の息子は絶対非行のない人間に育てようと意識が強く、かなり厳しく枠にはめられた感じだった。そんな環境で、小学生時代はわんぱくな子供とは正反対の萎縮した子供になってしまっていた。
 

自信をもつ小学校高学年

4年生になると同時にまた転校になった。今度は広島市内だったが新しい環境になじむのに苦労した記憶がある。公務員という仕事の関係で3年に一度の転勤を余儀なくされた。「自分が親になったときは絶対転校のない仕事をしよう」と子供心に感じていた。それまで運動オンチ、背も低く、クラスでも存在感がないタイプ。5年生から6年生にかけて身長が14センチも伸びた。それまで背の順で前から2番目だったのが一気に後ろから2番目に躍進した。勉強もトップクラス、からだが大きくなったおかげで運動もそこそこできるようになった。6年生のクラスでは今で言うイケメンTOP3に入り、みんなの羨望を受ける存在になった。ちょっと誇らしかった。
 
一方で自己表現が素直にできない子供だった。「三宅君は何を考えているのかわからない子ですね」当時信頼していた担任の先生が言っていたという言葉はショックだった。もっと普通に自分を出したいけど、うまくいかない。そんな自分にもどかしさを感じていた。「すぐふてくされる」「内向的」こんなふうに言われるのがいやでいやでたまらなかった。
 
先日通りがかりのお母さんが「何でふてくされてるんだよ!」と怒られて泣いている小学生を見ることがあった。その子の気持ちがわかる気がした。自由がなかったし、個性を出すこともできなかった。好きなことを好きと言えずやりたいことができなかった。忍耐、我慢することこそが大切、子供心にそんな思いだけが残っている。個人のもつ個性をそのまま伸ばしてあげたい、大事にしたいという思いはこうした子供の頃の経験が原点になっているのだと改めて感じる。
 

自分の陣地で元気だった中学2年、転校で激変した中学3年

華やかな小学6年生からそのまま地元の中学校に進学した。慣れ親しんだ環境、友達のもたくさんいてたのしい中学入学になった。「お前は運動ができないから卓球部に入れ」そんなふうに父親に言われ、たいして興味もない卓球部に入部した。部長は技術が突出した人がやることになった。僕は技術は足らなかったが、部員には慕われ副部長に推薦された。試合で活躍するというより、チームのムードメーカー的存在だった。一つ後悔しているのは運動部らしい運動部に入らなかったこと。できるできないは親が決めることではない。あくまで子供本人の意思に任せればいいもの。ろくに運動部らしいものをやらなかったことはこの後高校まで尾を引くことになる。
 
中学3年になると同時に岡山の中学に転校した。当時岡山市内でも3大ワルと称された学校だった。裸の上に短ランにボンタン。スクーターで運動場を乗り回したり、広島時代には想像もつかない不良のたまり場だった。転校生の僕は当然のようにそうした連中に目をつけられた。トイレに呼び出され「これ吸ってみろ!」とタバコをくわえさせられたり、裏口で囲まれたり。怖かった。今でいういじめ。何かで認めさせないと危ない感じを受けた。
 
腕力に自信があるわけでもなく運動ができるわけでもない。しょうがなく勉強することにした。他にやることもなかったので学年で一桁の順位になった。それをみて不良の連中は「ルーキー」と僕を呼ぶようになった。とりあえず一目置かれ、それからいじめはなくなった。精神的にもきびしい1年間、盲腸の手術を受けたり、もやしのような毎日だった。親には基本的に相談をしない子供になっていた。今思い返すと、フランクに誰にでもどんなささいなことも相談に乗ろうとする姿勢は子供時代に自分ができなかったことの裏返しなのかもしれない。
 

空虚で後悔の残る高校時代

1年間の受験勉強の結果、県立高校普通科に進学した。親は良くやった!ととてもほめてくれた。それなりに勉強したし、合格したことはうれしかったが、どこかに満足しきれないものを感じていた。部活は中学のながれで卓球部に入ってみた。そもそも興味らしい興味もないし技術もない。練習がきつくて長くは続かなかった。特に長距離走は苦手だった。こうして高校1年の間には退部。部活に属さない帰宅部のメンバーになった。
 
田舎から一人暮らしで岡山に来ていた友人つながりでバンド仲間と接点をもったりもした。でもちゃんと楽器をやるわけでもなかった。他の帰宅部の連中と部屋でたむろったり、当時流行っていたインベーダーゲームをやったりした。みんながタバコを吸ったり、ゲームセンターで羽目を外すのを尻目に何もしないでいた。父親にばれるのが怖かったからだ。父親は小学高学年以降、僕に手をあげることはなくなっていた。でも低学年までに徹底的に厳しく育てられたこと、保護観察官の息子として非行はするなという教えが抑圧していた。
 
こうして高校時代は自主性のない、何もしない何も残らない本当に空虚な3年間になってしまった。それなりの受験勉強をして大学は関西の私立にも受かった。母親と下宿探しに大阪に行った。地方から初めて都会の電車に乗って人の多さに驚いた。大学生生活への憧れもできたが、学費のことを考え香川大学に進学した。親に言われたレールをきちんと守ることしか考えていなかったのかもしれない。
 

羽を伸ばし、でも親のすねをかじる大学時代

海を渡って(といっても瀬戸内海だが)の一人暮らしが始まった。これまで親の監視のもと何もできずに育ってきた。それもあって自由な気持ちが広がっていた。最初は同じ高校から進学した友人とつるんでいたが、これでは広がらないと思いサークルに入ることにした。ガッツリ部活という感じではなかった。少しゆるめのものを探し、ユースホステルサークルなるものに入った。野外活動をしながら友達の輪が広がるところが入りやすかった。ユースホステルには独特の規律があったり、宿泊先でミーティングと呼ばれる強制参加のイベントがあったり、なじめないものがあった。同期で入ったメンバーはそのあたりの価値観が同じで何がユースホステル精神だと反抗して自由な風土をつくっていった。
 
そんな同期の仲間とは夜遅くまで下宿に集まってお互いのことを話し込んだりした。昼間はパチンコ屋に入り浸れ、夜はマージャン。明け方までやったらスクーターに乗ってうどんを食べに行く、そんな毎日だった。まさに寝食を共にする関係、強い絆が生まれていった。サークルでは定期的に野外活動が行われた。重いテントを担いで何十キロも歩行したり、山登りをしたり、野宿したり。活動に参加するための費用を稼ぐためバイトを繰り返し、そのお金でまた野外活動をする、そんな日々だった。チームや仲間というキーワードが自分の中に生まれたのはこの頃だと思う。
 
そんなわけで勉強と呼べるようなことはほぼ皆無に近かった。試験が近づくとカンペノートを集めて一夜漬け。卒論も関連文献の丸写し。よくこれで卒業できたものだと思う。大きな後悔は自由な4年間で知識らしい知識のひとつでも身に着けなかったこと。大学時代にしかできない体験をしなかったこと。海外に行く経験でもしておけばさらに視野が広がったと思う。一方でサークルと不勉強に明け暮れる毎日の裏で、毎月やりくりをしながら仕送りをしてくれた母親には感謝と申し訳ない気持ちが今にも残っている。
 
あと忘れてはいけないエピソード、それが焚き火だ。サークルの野外活動に出かけた夜は仲間と一緒に焚き火を囲んだ。キャンプファイヤーではなく、5〜6人で小さく囲むイメージだ。夜も更けて少しお酒が入ると、日頃話さないこと、言わなくてもいいことをお互いに話す不思議な空間ができた。この感覚がずっと脳裏に残っていて独立後に再燃、パートナーとのご縁もあって、焚き火コミュニケーション事業を興すことにつながっていく。
 
大学4年のとき、父親が転勤で同居することになった。父親と二人で暮らすある意味貴重な1年間になった。一方で一番自由に好きなことができる最後の1年がまたも拘束される感は否めなかった。そんな4年生を終え就職活動へ。こんな仕事がやりたいという明確な目標はなかった。何となく海外の仕事がしたい気持ちで身近な商品を扱える会社選びをした。数社受けご縁のあった日立系の家電販売会社に内定した。
 
親のすすめるまま自分の考えをもたずに過ごした学生時代から就職まで。これではいけない、自分としての考え方をもつことが大切だ・・・そんな思いが社会人の働き方に関心をもち、事業づくりへ影響を与えることになったのかもしれない。
 

やる気がない20代前半、任されてモチベーションが上がる20代後半

海外で仕事ができるという理由だけで選んだ会社。配属発表は関西。それも街の電器屋担当という海外とは正反対の仕事。本社で希望通り海外部門に配属されて惚れやかにする同期を尻目にすっかり意気消沈してしまった。「そんなに気を落とすな。これからはじまったばかりだ」あまりに落ち込んでいる僕の姿を見て当時の人事担当の人が声を掛けてくれたくらいだった。今、思い返せばこの配属が僕の人生の布石になったように思う。
 
1ヶ月弱の東京本社研修の間に後に今の妻となる女性と知り合う。同期入社だった。本社で海外部門に配属になった彼女。希望からかけ離れ大阪で仕事することになった自分。劣等感があった。それから約3年に渡る遠距離恋愛が始まる。携帯もない時代、手紙とテレホンカードでやりとりをした。テレホンカードは3年間で10センチくらいの厚みになった。独身寮には公衆電話が1台しかなかった。寮が山の上にあったこともあり、1台の電話には寮生が殺到した。お互い彼女に電話するということで同僚とケンカになったこともあった。
 
当時最も印象に残る出来事、それは新幹線。月に1回大阪と東京を往復する。土曜朝始発で大阪を出発、日曜夜の東京発最終で帰るサイクル。山下達郎のクリスマスイヴがBGMでシンデレラエクスプレスと称されていた。そんなある日、TVでシンデレラエクスプレスの特集番組が放映された。番組のオープニングに僕たち二人の姿が映し出されたらしい。というのは当の本人たちはそのことを知らなかったから。何と実家の両親がこの映像をみて二人が付き合っていることを知ることになった。後日、その映像をくださいとTV局に掛け合ったがあえなく断られ悔しい思いをしたことを思い出す。
 
遠距離恋愛も3年弱。経済的にも精神的にも限界にいたり25歳で結婚に至った。妻は当時23歳、今思えば若い結婚だった。二人一緒の生活が始まったことで精神的には安定。仕事はそれなりにこなしていた。でもあいかわらずやる気はなかった。そんなある日、当時の支社長に呼び出された。何でも地域家電店のIT化のプロジェクトがスタートするとのこと。お前に関西代表をやってもらおうと思うとの内示。年配上司の中で下働きばかりの会社生活。モチベーションが腐りきっていた毎日に初めて光が差した思いがした。
 
全くゼロからのスタート。やることは新しいことばかり。誰もやったことがない領域。自分にすべてが任せてもらえる。今までそんな環境に身を置いたことがなかった。不安もあったが実際やり始めるとこれがたまらなくたのしい。自分で会社を探し面接をして外部から派遣社員を雇い入れた。まさに自分がゼロから仕事を創り、チームを創ってゴールへ向かって進む毎日。わくわくするし一番自分の力が出せる環境を実感した最初の出来事だった。
 
仕事柄、街の電器屋さんと直接やりとりすることがほとんどになる。それまでは間接的に営業していた感じ。それがダイレクトにやりとりすることになった。現場では多くの矛盾が起こっていた。現場での苦悩に耳を貸さない本社とはいつも衝突した。受話器をもって立ち上がり「お前、何考えてるんや!」と怒鳴りつけることもしばしばだった。今、何が大切なのか?そのことだけを考えて仕事に没頭した。
 

順風満帆の30代前半サラリーマン時代

がむしゃらに仕事に明け暮れて30歳を過ぎた頃、東京本社への異動を命じられた。いつかは本部に行って現状を正したい!そう思うようになっていた。「よし本社だ!今まで現場の人が苦しんできたこと、お店が苦労していたことを全て解決してやる!」33歳そんな強い思いで東京へ転勤した。妻は東京出身、実家近くになるのも好都合だった。
 
配属された部署はまさにそれまでやってきた地域家電店の全国の取りまとめと方向性を決めるセクションだった。ここが改革できたら全てが良くなる、そう感じた。ところが上長である課長は頭が良くてエリートだが現場に対する情熱のかけらもない人。自分の出世のことしか考えていないタイプ。「こんなやつが本社で動かしているから現場が苦しんでいる。許せない!」いきなり衝突した。「僕は僕のやり方でやらせてもらいます!」そう言い切った。その日から一切課長とは口をきかなくなった。そんな非常識で単細胞な僕を部長は受け止めてくれた。しばらくして課長は異動になり、主任だった僕は部長直轄の変則組織になった。
 
本社で最初に手掛けた仕事、それは関西時代に自分で創り上げた顧客関係づくりの仕組みを拡げていくこと。たった一人で全国へ声掛けを始めた。「関西から来た三宅とかいう奴、一人でいったい何をやってるんだ?」周囲の本社の人間は冷ややかに見ていたにちがいない。組織があっての仕事、しかもそれなりに大きな会社、たしかに無謀だったと思う。でも大事なことは広めないといけない!その一心だった。
 
サラリーマンとしてリスクのある仕事の進め方だった。でも現場の改革をするために本社に来たんだ、それができないならどうなってもいい!そんな一途な思いがあった。地道な啓蒙活動を繰り返し、少しずつ現場の賛同者を増やしていった。やがて一個人が関西からもってきた仕組みが少しずつ全国区になっていった。
 
そんな中、20代の頃、仕事に火がつくきっかけになった地域家電店のITシステムを一新するかやめてしまうかという問題が立ち上がった。売上規模からすると今後成長が見込めないチャネルへの投資になる。会社として果たして意味があるのか決断を迫られるテーマだった。入社以来、十数年間ずっと関わってきた地域家電店。僕はこのチャネルに大きな可能性を感じていた。これから始まる高齢化社会には街の電器屋の存在が不可欠だと。何としてもこの投資プロジェクトを実現したかった。とはいえ巨額を伴う開発案件、途方もなくハードルは高かった。
 
そんな時、経理部に関西時代の先輩がいることを知った。彼は経理部の実務の責任者だ。同じ出身のよしみで一度話をさせてもらう場をつくってもらった。そして熱を込めてこのプロジェクトの必要性を伝えた。先輩は見た目は冷静だが内面は情熱で仕事をするタイプ、想いが伝わった。全面的にバックアップしてくれることになった。それから何度も何度も計画を練り込んでいった。夜を徹して作り込んだこともしばしばあった。そして部長にも承諾を得た。
 
部長と二人でCEO以下、主な役員へ個別に説明いわゆる根回しにまわった。「三宅君、僕はITとかそういうのが苦手なんだ。君に任すから説明してくれ」部長はいつもこう言った。なんて無責任な部長なんだとそのたびに内心は頭にきていた。真相はそうではなかった。役員に対して部下に言いたいことを言わせる、ということは部下の発言に自分が全責任をもつということになる。これがどれだけ大変なことだったか。
 
部長はすべてを僕に任せてくれていた。「信頼」とは信じて頼ると書く。ずっと後になって、僕は「信頼」の本当の意味をこの部長の仕事の仕方から教わることになった。余談だが、経理部の先輩は後に若くして取締役に昇進したことを知った。信念と情熱をもつ人が会社を中核を動かすメンバーになったことをうれしく思う。
 
こうして迎えた経営会議の日。会社としての大きな決裁機関だ。役員と提案者だけが入れる公式の場。平社員が絶対に入ることがない役員会議室。緊張した。事前の根回しのおかげで即座にGOサインが出た。部長と経理課長の多大な応援を受け、億単位の決裁が通った瞬間だった。経営会議を終えたときの達成感というか安堵感は今でも忘れられない。
 
晴れてGOサイン、あとはやるだけだ。これまで水面下でこそこそとやってきたことが大手を振って取り組めることになった。早速、システム開発プロジェクトを立ち上げた。企画部門、情報部門、サービス部門、営業部門、関連会社からメンバーをアサインしてまわった。この人をぜひというメンバーには部長にも同行してもらった。気がつけば、総勢100人を超える大プロジェクトチームになっていた。関西からやってきてたった一人で始めたプロジェクトがこんな形に育っていった。周囲の応援でここまで成長することができた。当時は目まぐるしく動く毎日、感慨にふける余裕もなかった。
 
本部で仕組みをつくる傍ら、一方で現場に出張ってシステムの必要性を説いてまわった。300店舗を超えるような大きな集まりの場から1店舗の店主と膝つきで話すといったものまで日本中を駆け巡った。まさにドサまわり。この間に沖縄を除く県庁所在地はすべて制覇することになった。現場に出ると水を得た魚状態。タイトなスケジュールも全く気にならなかった。日々動き回っていたある日、管理職昇格の内示があった。同期入社で先頭を切ることになった。一生懸命やったことが認められうれしかった。
 
システム構築は大変だった。何もないところから仕様を決めカタチにしていく。僕は理想形を追い求めた。妥協はしたくない。日立本体から呼んだSEや外部開発要員は徹夜に近い毎日になった。開発場所が要るのでオフィスのワンフロアを一定期間借り切る交渉もした。連日深夜まで作業、オフィスの硬い床カーペットにそのまま寝るようなメンバーもたくさんいた。こうして約1年がかりでシステム構築が進んでいった。
 
難産の末リリースした新しい店舗運営システム。さらなる前途多難な難題が待ち構えていた。バグ(システムの不具合)の連続発生である。短期間でさまざまな仕掛けを入れた結果の歪みだった。システムを立ち上げる一方でそれを導入してもらうため全国の地域家電店へ説明にまわった。街の電器屋さんがそれなりの投資をしてITシステムを導入する、理解があるお店は少なかった。説明というより必要性を説いてまわる、情熱を伝える泥臭い方法だった。
 
そうやって何とか導入することを取り付け、いざお店に設置したら動かない!そんな事態が発生した。当然のごとくクレームの嵐になった。新システム導入のためのコールセンターを同時立ち上げしていた。問い合わせ受付にも増してクレーム処理センターに様変わりしてしまった。そんなきびしい中にあっても女性ばかりで構成した電話受付メンバーは一生懸命仕事に向き合ってくれた。
 
前後するが、一連のながれの中でシステムのサポートセンターという新しい部門の立ち上げをした。30人を超えるチームだったがその中に正社員は僕を除くとたった一人しかいなかった。それ以外は全員派遣社員からの採用。旧態依然とした環境だった当時の会社風土としては異例の組織人事だった。「あそこは外人部隊だ」「外部の人間で仕事なんてできるの?」そんなふうに批評する連中もいた。
 
僕はそんな言い方が嫌いだった。何で正社員だけが優遇されるのか。目的意識と想いをもって仕事をしてくれることが会社にとっては一番必要なこと。正社員であっても毎日フラフラしながら高い給料をもらっている人はたくさんいた。同じ環境にいる人間だけでは新しい発想は生まれない。だから敢えて外部から人材を集めたかった。
 
複数の派遣会社にアクセスし、一人ひとり全員個別面談を繰り返した。スキルよりその人に想いがあるか否かが採用基準だった。途中チーム内の人間関係や仕事のトラブルでいろいろなことがあった。ピーク時は朝から夜まで女性メンバーの個別相談に乗っているような日もあった。人の出入りは多少あったがこうして志を同じにする最強チームが出来上がっていった。
 
期限付きのプロジェクトが解散する日。30人全員ではっちゃけて写真を撮った情景。チームメンバーのやり切った達成感と心からの笑顔。今でも脳裏に焼きついている。本当に想いをひとつにすることができたらどんなことでも実現できる。チームって素晴らしい。ゼロからイチを生み出すチームづくりの醍醐味とやりがいを感じた瞬間だった。
 
地域家電店の有志とも知り合った。特に二代目で将来へ理想を求める人たちとは膝つきで話し込んでいた。その中でも特に懇意にした大阪のお店があった。残念ながら彼は今家電店を辞め、リフォーム事業に移行している。でもそのことで事業を安定基盤に築き上げていった。当時からすると20年近くになるが、未だに親交がある。こうしてお店の人と直接やりとりするスタイルは僕がいたポジションでは前例がなかった。でも彼との濃い関係が現場から物事を組み立てる姿勢を学ぶことができた。
 
そんなわけで四六時中、仕事のことしか考えない毎日だった。たまの休み、家族と買物をしているときも子供と遊んでいるときも何をしていようが店舗の仕組みづくりのことを考えていた。著名人が主催するビジネススクールにも入学した。関連書籍も片っ端から読んでいった。そしてこれはと感じるものがあったらすぐに行動に移した。思い立ったらすぐ行動、朝一番でメールを入れたり、朝会社行ったら前日と違うことを平気で言っていた。周囲のメンバーは大変だったと思う。この性格は今でも直らない。「団長(僕のニックネーム)の思いつきがはじまった・・・」みんな口々に言っている。
 
早朝から深夜までの毎日が続いたが、いやになったことは一度もなかった。むしろわくわく感と躍動感に満ちていた。このときの仕事のつくり方が後の独立起業につながるものだったと振り返る。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いとはこのことを言うのかもしれない。そのくらいのスピード感があった。
 

サラリーマン人生を一変した出来事

その日のことは今でも鮮明に覚えている。郊外にある研修センター。幹部候補生に選ばれたメンバーが一同に集まった。僕もその一人として指名されていた。1泊2日の研修が始まった。2日目の午前中がこの研修の要、部門のCEOとの直接対話の場だった。CEOを前に僕たち幹部候補生がロの字で座った。
 
「君たちは選ばれた人間だ。今日はこれから会社の未来を良くしていくために何が必要は本音で話してほしい」CEOは切り出した。「本音でいいんだ・・・」それまで現場叩き上げでやってきた。末端では何に困っているのか、いやというほど経験してきた。現場で起こっていることを全く見ようとしない上層部。お客さまに向くことが商売の基本のはずなのに、やっていることは正反対。そんな毎日に憤りを感じていた。いつか直接伝えたいと思っていた。それが言える。気持ちが晴れやかになる思いがした。
 
僕以外は、本社でエリートコースを歩んできた人がほとんどだった。彼らに現場のことなんてわかるはずがない!そんな偏見もあったかもしれない。とにかくここでちゃんと伝えるんだ。そう自分に言い聞かせた。
 
一人ひとりがコメントしていく。「先期の商品計画がこうなっていたらもっとこうだったと思います」「商品ラインナップがこうだったら改善できると思います」「体制としてこういうものがあったらさらに良くなると思います」こんな内容が続く。「そんなこと、わざわざこの場で言わなくてもいいじゃないか。日頃の会議で発言していることばっかりや。CEOはもっと本質的なことを求めているに違いない!」自分の順番がまわってくるまで、本音とは言えない上っ面なコメントの連続。ボルテージは上がっていった。
 
そして訪れた僕の番。「正直に言います。現場をみていない本社に問題があると思います。現場ではこんなことに困っています。現場目線、顧客目線で物事を考えていくべきです」こんな内容を話した。少し辛らつかもしれなかったがここまでは良かったと思う。この後の発言が僕のサラリーマン人生を大きく変えることになる。「上長の間のコミュニケーションが解決されないと根本は解決しないと思います」
 
上長とは当時の常務と直属の部長のことを指す。常日頃、この二人の会話には現場をないがしろにしたものが多かった。まあまあ、良きに計らえ的な無責任なものが目に付いた。立場上何も言えない自分。腹立たしい思いの連続だった。もっと現場を見てほしい、そこから発想すれば会社はもっと良くなる、確信があった。
 
このひと言を言った後、会議室が冷凍庫のように凍った感覚になった。周囲のメンバーはみんな下を向いていた。「やっちまったよ・・・」みんなそんな顔をしていた。後ろを振り返るとそれまでは部屋にいなかった常務が苦虫をつぶしたような表情で座っていた。
 
常務は一ヶ月後にCEOに昇格することが決まっていた。つまり次期CEOということだ。「三宅は次期CEOを批判した男」この日を境に僕はこんな見えないレッテルを貼られることになった。
 
翌日朝、会社に行くと部長がすごい形相で僕を睨みつけてきた。「この馬鹿者が!お前がやったことはどんなことかわかっているのか!」日頃温和で感情を表に出すことのない部長がフロア中に響き渡るような大きな怒鳴り声を放った。その足で常務室へ向かった。「このたびはとんでもなく失礼なことをして申し訳ありませんでした」常務の前で土下座をした。常務は僕の顔を見ようともしなかった。それからサラリーマン人生としての修羅場が始まることになる。
 

サラリーマン失格の40代前半

この事件の1ヶ月後、異動を命じられる。その部署は今までやってきたこととは全くの別世界。一応管理職ではあったが一線ははずされた。その後コロコロ部署異動した。ひどいときは3ヶ月で異動したこともあった。通常では考えられない短さだった。どこに行っても「あいつがCEOを批判した三宅って奴らしいぜ・・・」そんな空気感が漂っていた。見えないレッテルそのものだった。
 
こうした「島流し流浪の旅」状態の中にあっても財産になることがあった。上司としてお手本になる人物との出会いだった。子会社から親会社の基幹部署の営業本部長まで上り詰めた人だった。出身が同じ子会社、関西だったこともあり、周りから羨望のポジションにいる人だった。一見マフィアのボスという感じの人だった。思い返すと、ボスは地域家電店のITシステムを立ち上げるとき、今までにない端末を導入することを提案した先にいた責任者だった。前代未聞の提案だった。彼は僕の熱弁を聴き入れ快諾してくれた。この出来事が本社での初めての出会いだった。
 
僕があっちこっちたらい回し状態になっていたとき、ボスは自分の部署で拾ってくれた。そして新しいチャンスを与えてくれた。当時の僕はボスのそうした好意に気づくことができず、以前やっていた仕事にこだわってしまった。ボスの導きにしたがっていたらサラリーマン人生は変わっていたかもしれない。
 
いつもボスの部屋に行くと、ドーンと構えて座っていた。「三宅、またやんちゃをやったな」と笑顔で語りかけてくれた。細かいことは何も言わない人だった。いったん相手をしっかりと受け止める器がとにかく大きかった。サラリーマンで幹部クラスにいる人をたくさん見てきたが、こんな大きな器をもっている人は他には見たことがない。いつかこんな人になりたいと思った。彼が常々言っていたのが「愚直にやりきる」という言葉。この言葉はその後の僕の行動指針になっていった。
 
こうして異動を繰り返した。最初は東京内での異動だった。そんなある日、関西行きの辞令が出た。ポジションも格下げ、収入もダウンする人事だった。初の単身赴任だった。関西は新入社員から僕を育ててくれた場所。知っている顔ぶれもたくさんいた。新入社員当時にやっていた仕事と同じ職種に戻された。一人暮らしなので週末やることもない。店舗の売り出しには自ら応援に出たりしてさらに現場と一緒になって汗を流した。店舗との関係も濃くなった。結果も出した。それなりに躍動感のある毎日だった。でもスケール感が今までとは違う。心からやりがいがある仕事とは言えなかった。
 
月一回は自宅に帰った。家族とともにずっと過ごしてきただけに単身はさみしかった。その思いが強くなり、ある日支社長に「東京に戻してください」と直談判してしまった。今思い返せば無理なことを懇願したものだと思う。その顛末がサラリーマン人生をドン底に突き落とすことになろうとは夢にも思っていなかった。
 

サラリーマン人生をドン底に突き落としたパワハラ体験

2年弱の単身赴任を終え、東京に戻ってきた。東京での赴任先は関東甲信越を担当する支社。ポジションは本部長直轄のいびつなものだった。仕事は新規分野の類だった。新しい事を立ち上げるのが好き、そのための人事だとよろこんで着任した。最初の2ヶ月は自由に動けた。
 
これなら久々にやれる!そんなふうに思い始めた頃、形相が一変した。それまで何も言わなかった本部長の執拗なフォローが始まった。フォローとは名ばかり、僕がどこで何をしているのか、誰と会っているのか。出張に行ったら場所移動するごとに報告することが義務づけられるようになった。そして僕が行った先には追っかけで電話を入れ、どんなことをしていたかを現地に確認をしていたようだ。そのやり方はさらにエスカレートしていった。
 
朝会社に出社してしばらくすると本部長室に呼び出しをされるようになった。部屋の扉が閉めると閉ざされた空間になる。中でどんな話をしていようが外にはもれることがない。「三宅、お前がやっていることがどんなことかわかるか?どこどこの支店長はお前のことを批判している。お前には家族がいたよな?いいか?俺の言うことをきかなかったらどうなるか、わかるよな?」人事権を盾にしたパワハラが始まった。来る日も来る日も部屋に閉じ込められ圧力をかけてくるようになった。
 
だんだんと周囲の人とも話すことがなくなっていった。事務所にいること自体が苦痛になった。たまの出張で外出したときも出先から何回も電話を入れないといけない。どこに行っても監視されて圧力がかかる。これが毎日になるとさすがに行き場を失うようになった。こんな日々が1年近く続いた。
 
次第にまともな精神状態ではなくなっていった。末期の頃。最寄り駅で降りて会社までの道のりは足が重かった。歩きながら濃いグレーの会社の建物が見えると吐き気をもよおすようになった。いったん駅のトイレに戻りまた会社へ。ホームに入ってくる通勤電車をみて「このまま飛び込んだ方がラクになるかも・・・」そんなふう思ったことも何度かあった。
 
妻がインターネットでうつ対策のテキストを取り寄せてくれた。訴えるのにどうしたらいいか必死に調べてくれたらしい。切羽詰まっていたのは間違いないが、この頃は頭の中がおかしくなっていて当時の記憶はおぼろげになっている。まさに八方塞がりになっていた。「あの頃は家に帰ってきてもずっと黙っていた。ちょっとでも気にかかることを言うととたんに小さくなってしまう、そんな感じだった。見るに堪えない状況だった」これは妻の後日談だ。
 
それまでは自殺するなんてとんでもない話だと思っていた。でも人は追い込まれるとそういう精神状態になってしまうもの。そのことを身をもって知った。つらいときは一人になってはいけない。少しでも話ができる相手がいること。周囲の人はきちんと話を聴いてあげる、受け容れてあげることがとても大切になる。
 

どん底から浮上するきっかけになった一日

その日をどうやって迎えたのかは今でも定かではない。ただ僕のドン底人生を救う節目になった日であることはまちがいない。来る日も来る日もパワハラの連続。まともな精神状態ではなかった。実は全く記憶にないのだがネットでカウンセラーを探していたようだ。どうやってそこへ行き着いたのか、それも覚えていない。とある一人のカウンセラーのサイトから相談申込をした。僕の人生で後にも先にもカウンセラーに相談したのはこの日だけだ。
 
相談に行った日のことは覚えている。千代田区にある施設の貸会議室が相談場所だった。地下一階の重い扉を開けると、だだっ広い会議室の真ん中に机2つと椅子2つ。そこへカウンセラーが座っていた。にこやかだった。その頃は末期状態だったのか普通に笑顔で応えることもできなかった。「お座りになってください」「お水とお茶はどちらがいいですか?」「じゃあお茶を・・・」お茶を手にして座った。
 
彼は笑顔のまま黙っていた。「え、え、えーと、な、なにかしゃべった方がいいですか、、、」沈黙が気になって僕はたまらずこう切り出した。「ご自由になさってください」「あ、できたらそちらの紙に今のお気持ちを書いていただけたらと思います」と手元にある白紙の用紙を指差した。「わ、わ、わかりました」ほとんど人と話したことがなかったので言葉がスムーズに出てこなかった。少々どもり気味だった。
 
白い紙に今の心境を書こうとした。最初は文字にならなかった。でも少しずつ書いているとそれまで混沌としていた頭の中が整理できはじめてきた。しばらく書いた後「じゃあ、紙を見ながら少しずつお話になってみてください」そう言われた。ポツリポツリ、話していった。まとまりのない切れ切れな話だったと思う。カウンセラーは一生懸命そんな僕の話に耳を傾けてくれた。途中でさえぎることなんて一度もなかった。ひたすら全力で聴いてくれる、そんな感じだった。
 
話しながら、これまで頭の中を渦巻いていたものが少しずつ解きほぐされていく思いがした。2時間くらいだったと思う。話し終わった頃、一筋の光が見えていた。この感覚は今でも忘れられない衝撃体験だった。
 
この日がなかったら、もしかしたら自殺に追い込まれていたかもしれない。今思えば自殺なんてバカなことを考えていたと思う。でも精神的に追い込まれると普通の状態ではいられなくなる。通常では考えられないような行為を平気で起こしてしまう。どん底体験を通じてそんな状態を知ることになった。うつで行き詰まって自殺してしまう人の気持ちの一端を理解できるようになった。とにかく、この日を底辺として僕の人生グラフは上向きに変わっていくことになる。彼はまさに命の恩人である。
 
この体験を通じて「聴く」ことの重要性がからだの真ん中に深く刻み込まれることになった。人の話をしっかり聴く、相手をいったん受け容れる、安心安全な場をつくってあげる・・・人生後半はこれらが僕の基本姿勢になっていった。
 

ベンチャー立ち上げ→倒産で学んだこと

「このままではいけない。もう環境を変えるしかない」そう思い転職活動をスタートした。大手企業一筋、周囲には転職するなんて空気はいっさいなし。もちろん転職した人も見たことがない。そんな環境で密かに転職先を探し始めた。現場叩き上げで本部に異動し、100人を超える横断プロジェクトをゼロから立ち上げ。全国をまたにかけて啓蒙活動、採用から教育まで一手に引き受け新規部門を創り上げた・・・「これまでの自分の実力をもってすれば引く手あまたのはず」絶対の自信をもって臨んだ転職活動。その自信はもろくも崩れ去ることになる。
 
「三宅さんのキャリアで同じ年収がほしいのなら同じ業種で同じ職種しかないですね。キャリアチェンジしたいのなら間違いなく年収ダウンになります」人材紹介エージェントには冷静にこんなことを言われた。「えっ?そうなんですか?」信じられなかった。マネジメントができるとかリーダーシップがどうだとかは全く意味のないことだった。この時43歳。40歳を過ぎてからの転職の厳しさを身をもって知ることになった。
 
それから数ヶ月、転職活動は続いていた。50社以上は受けたと思う。ほとんどが書類選考で落ちていた。これだけ落ちると最初のうちは人格否定されているのかと落ち込んだ。でも40代を過ぎてからの転職はこんなものなんだとわかるようになった。一方でもう同じ業界で仕事はしたくないと思っていた。組織人事コンサルといった職種を見つけて最終面接まで進んだこともあったがあえなく撃沈。
 
お先真っ暗と思った矢先、携帯電話でショッピングモールをつくる会社の立ち上げ案件の紹介が飛び込んできた。ゼロから立ち上げる会社、しかもあらゆる業種や小売店との接点がある。まさにチャレンジしてみたい仕事だった。早速、書類選考、面接の段取りをし、役員面接、社長面接とトントン拍子に進んでいった。最終面接で報酬の提示、若干の年収ダウンはあったがこれなら御の字の価格。よろしくお願いします!ということで決定した。
 
入社が決まってからはまだ今の会社に籍を残しながら立ち上げ事前ミーティングに参加する毎日になった。現会社が終業してから夜に新会社へ向かう変則的な毎日。でも今まで味わったことのないワクワクした気持ちだった。
 
あと必要なのは今の会社への退職申し入れだった。どういう手続きをすればいいのかわからなかった。ただどうしてもやりたいことがあった。それは退職届を目の前に出すことだった。当時の上長の席に行き「よろしくお願いします」と自筆の退職届を上長の机の上に置いた。
 
届はすぐさま支社長のもとへあがり僕は支社長室へ呼ばれた。支社長とは僕にパワハラをしていた元営業本部長のことだ。僕が苦しんでいる間に昇格したのだった。「お前これからどうするんだ?生活していけるのか?」要らないお世話だった。もう気持ちに整理はついていた。不思議と怒りは出てこなかった。11月末、入社以来22年勤めた会社と別れを告げた。
 
12月に入ってからは有給消化期間に入った。といっても新しい会社の立ち上げ準備で奔放した。その年の年末はベンチャー会社立ち上げ業務に明け暮れることになった。この時は、今までと全く違う環境に身を置き、刺激が得られたことで気がついていなかったが、あとになって実質ベンチャーに無給でうまく使われただけだったことがわかった。
 
慌ただしく正月が明けても仕事は忙しくなるばかり。正月3が日もほどほどに出勤要請があった。会社が立ち上がるってこんな雰囲気なんだ、そう思って休日返上で出社した。それまでのパワハラ状態に比べれば、バンバン仕事ができること自体がうれしかった。
 
年が明けてしばらくすると会社の雰囲気が変わっていった。直属の営業役員からは毎日携帯メールが入るようになった。頻度も昼夜を問わずになってきた。「明日までに○○しろ」内容は無理難題ばかり。「ちょっとおかしいなあ、この会社」と感じるようになった。業績が思わしくないらしい。
 
今までニコニコしていた社長の形相がみるみる厳しくなっていくのがわかった。全体朝礼のある日。なぜか僕だけやりだまにあげられた。みんなの前で徹底的に吊るし上げられた。情けない気持ちでいっぱいだった。後でわかったことだが、これが全社員へのプレッシャーののろしになる出来事だった。ベンチャーが滅びゆく顛末をこの身で感じた。
 
でもそんな中にあって大きな収穫があった。兼務兼務になる中、僕は営業役員がこれまで担当していた営業部長の役割を担うことになった。役員は傾いた会社のことで手一杯になっていた。営業部は一匹狼的な人間ばかり。それまで様々な仕事をしてきた連中だった。「数字さえ出せばいいんだろ!」そんな感じでみんな好き放題にやっていた。チームでのまとまりなんてかけらもない感じだった。
 
ところが、会社が傾きかけたことを機にお互いが会話をするようになった。皮肉なものだ。後がない境遇、そんな中でお互い親近感が生まれていくようになった。愚痴を言い合いながらも仲間意識は上がっていった。僕も営業部長という最後の仕事で営業メンバー一人ひとりと向き合い面談していった。もうこれ以上何をやってもだめという段階まできたときのこと。営業チームで自主的に集まって、通勤で川のように人の大波ができる中、道行く人にビラ配りしたり、夕暮れに高級住宅街でチラシのポスティングをした情景は今でも鮮明に覚えている。
 
そして迎えたベンチャーの最終日。幹部を除く営業チーム全員が集まって打ち上げをやった。みんなそれまでめちゃくちゃ忙しくして一度たりとも一緒に飲みにいくなんてことはなかった。最初で最後の営業部飲み会だった。二次会はカラオケ。みんな座席シートの上に立ち上がって歌い踊りはじけまくった。心からの笑顔だった。修羅場とどん底を共有したからこそ得ることができた仲間との一体感。あの夜のことは一生忘れることはないだろう。たかが3ヶ月されど3ヶ月。それまでの20年を超えるような濃い時間がそこにはあった。この体験が今の起業家マインドの礎になっていることは間違いない。
 
「会社が倒産したよ」自宅に帰り妻に話した。その前夜、妻は首がない人がううろうろ歩いているような悪夢を見たそうだ。悪夢が現実になったことに驚いていた。
 

サラリーマンに区切りをつけさせた空虚な一年間

ベンチャー倒産後、失業状態になった。前回の転職は、会社に在籍しながらにして転職活動、間を置かずして次の会社へ移ることができた。今回はいきなりの出来事。しかも年齢は45歳。次の会社といってもそうそう見つかるはずがない。ハローワークでは憂鬱な表情をして毎日パソコンに向かう人たちがいた。独特のグレーな雰囲気は今でも記憶に残っている。
 
そんな中、前回お世話になった転職エージェントにも求職を依頼する。何社もけられ条件も厳しくなる中、社員30人程度の小さな会社が見つかる。仕事的にも妥協できそうだ。年収は6掛けになるが背に腹は変えられないので応募した。人事部長、営業役員、社長面接をクリアして採用が決まった。人事部長曰く「三宅さんは30人を超える希望者から選ばれた逸材」営業役員にも「あなたならどこへ行っても通用する。引く手あまただったことでしょう」そんなふうに言われた。これはいけるかも・・・と思ったのとは正反対の毎日が待っていることになる。
 
ふたを開けると異様な雰囲気の会社だった。70歳を超えるワンマン創業社長が牛耳っていた。事務所はいつもシーンと静まり返っていた。会話ひとつなかった。なぜか僕には仕事がなかった。時たまワードで清書してくれとか新入社員でもやらないような雑用だけをさせられた。一日何もせずデスクに座っている日も多かった。事務所にいても会話ができる人は一人もいない。改善を試みたがそんな環境ではなかった。年収がダウンしたので昼食代を節約するため妻に毎日弁当を作ってくれた。沈うつな事務所で食べると余計気が滅入るので、歩いて10分ほどのところにある大きな公園のベンチで一人弁当を食べていた。
 
誰もいない昼間の公園。野良犬がさみしそうに近くに寄ってきたこともあった。昼休みが終わる時間が近づくと重い足取りで会社に戻る。こんな毎日を来る日も来る日も繰り返した。仕事がないということがどれだけつらいことか身に沁みた。「何でこんなところでくすぶっているんだろう・・・。もっともっとやれる実力はあるのに・・・」いたたまれない気持ちだった。パワハラの時が人生最悪だったが、この時はこの時で別の意味で底辺を這いつくばっていた。今でも何かつらいことがあったらあの公園のお昼のことを思い出す。「あの時に比べれば・・・」そう思うと少々のつらいことは乗り越える材料になった。
 
この会社で虚しい1年が過ぎようとしていたある日、社長から北海道担当を命ぜられた。その辞令を受けることはずっぽり会社に入ることを意味していた。「このままではだめだ。人生が終わってしまう」そんな思いにかられた。「今、前に踏み出せって風が吹いているんだよ。そう思ってやるしかないんじゃないか?」ひと足前に独立した知り合いは言った。そう思うしかなかった。独立か・・・ふた文字が頭をよぎった。いったん家に持ち帰ることにした。
 
家に帰り、そのときの心境を素直に話した。「もう、やっちゃえば」妻は言った。このひと言が最後の決め手になった。これがなければもしかしたら独立を踏み出していなかったかもしれない。後できいたことだが、妻は僕の健康のことを第一に考えてくれていたみたいだ。あとはとにかく仕事に真剣に取り組んできた人、この人なら信用するしかないと。「元気だったら何でもできるじゃない!」きっとたくさんの不安があったはず。そんな中にあって後押ししてくれた妻には心から感謝している。
 

全く食えない独立1年目

こうして僕の独立人生が始まった。46歳のときだ。子供二人、上の子が高校入学、下の子が中学入学。住宅ローンもたんまり抱えていた。金銭的にはかなり無謀ななタイミングだった。知り合いから少し仕事がもらえそう、それに加えて何かやればとりあえず食べていけるだろう・・・そんな安直なスタートだった。その考えはとんでもなく甘かったことが後になってわかることになる。
 
とりあえず人と会うことが先決。そう思って知り合いに片っ端からアポをとって会いに行った。「それはがんばってください」みんなそう言った。でもそこから何かにつながることはなかった。当たり前のことで独立したらメリットがないと相手も動いてくれるはずがない。でもこの頃はまだサラリーマン根性が抜け切れていなかったのか、つながれば何かが生まれると思い込んでいた。
 
当初、仕事がもらえると思っていた知り合いとはトラブルで早々に離散に追い込まれた。それなりの人間関係をつくっていただけにショックだった。契約行為と役割分担がない中、わかったつもりで進めたことがさらにトラブルを増幅させた。起業家はフィフティフィフティの関係で最初に書面でパートナーシップをつくらないとうまくいかないことを学んだ。
 
仕事がない。どうしよう・・・そんな状態に陥った。すぐに稼ぎになるものはないか?フランチャイズか?でも普通のフランチャイズだと資金も掛かるし経験もない。そんな中、探偵業のフランチャイズを見つけて事業説明会にも参加したりもした。新宿の雑居ビルの一角にある薄暗い小さな部屋。もうやろうかと思いに加盟寸前までいった。でも何か違う・・・そんな思いで辞めた。街角に貼ってある探偵のポスターを見るたびに当時のことを思い出す。
 
こんな状況の中、数十万円した高額セミナーにも手を出した。同じような金額でNLPの講座にも通った。一刻も早くにビジネスを立ち上げたい!その一心だった。でも結果は散々。資格を取っても仕事になんてならないし、自分の軸が決まっていないと高額セミナーにお金を吸い取られるだけだった。
 
一方で毎月の生活費はもちろんのこと、住宅ローンの支払いが容赦なくやってくる。売上がないので手元のお金はどんどん無くなっていく。幾ばくかの蓄えの通帳残高が見る見る目減りしていく。お金が溶けるようになくなっていく・・・この感覚は忘れることができない。特に負担が大きかったのが健康保険、税金、年金だ。それまで給与天引きになっていたので自分で払っている感覚はなかった。ドサッと送られてくる請求書。毎月コンビニで支払うたびにお金の重さを感じた。
 
とりあえず目先のお金を稼がないといけない。ヤフオクで不用品を売った。ハローワークのパソコンに向かって仕事を探す日々にもなった。「もうこのままいったら生活できなくなる。バイトを始めるしかないか・・・」近くのスーパーの青果だしのバイトなら朝や夜にできる。時給1200円。やってみるか・・・そこまで追い込まれたこともあった。
 
こうしていろんなものをかき集めて何とか1年目を終了した。何のときだったか定かではないが、市役所でもらった源泉徴収票の年収が200万円。サラリーマン時代の5分の一以下だった。契約社員をしていた妻の年収を大きく下回っていたことを今でも覚えている。
 
「当時三宅さんは毎月のように名刺が変わっていました。会うたびにえっ?また変わったの?そんな感じでした。そしてこれじゃあ食えないよなあ・・・正直そう感じることも多々ありました。あの時は言えませんでしたけど・・・」創業当初から顧問でついてくれている税理士の後日談だ。この言葉がその頃の軸のなさを物語っている。
 
自分の仕事として興味のあったキャリア系のセミナーも少しずつやっていた。でも軸がしっかりしていない、商品の組み立てもできていない中、継続できるはずはなかった。「オレは起業していなかったんだ。単にフリーになって喜んでいただけなんだ。起業は自分で仕事を創り出していかないとだめなんだ」1年目のどん底からやっと気づくことができた。独立と起業のちがいを実体験の中から学んだ。
 

石の上にも三年

その後、決して順調とは言えないが曲りなりにも事業は進んでいった。ブレまくった1年を何とか乗り越え、自分が本当にやりたいことは何なのかを考えた。ある日参加したセミナーで「棚卸」というものの存在を知った。今までの自分の人生を振り返って何ができるのかを掘り起こしていくもの。「これだ!」と思った。起業するにあたり、自分自身を見つめ直すことなんてそれまで一度もしてこなかった。人には人それぞれオリジナルな人生がある。その中から生まれてくるものが強みになる。これがすべてのベースなんだ。この気づきがあとになって事業の重要な商品サービスに育つことになる。
 
独立して1年半経った頃だったと思う。起業へ向け何から手をつけたらいいかわからないときとても悩みに悩んだ。漠然とモヤモヤしたとき相談に乗ってくれる人が欲しかった。23年にわたるサラッリーマン経験。大手、ベンチャー、中小零細。エリートからパワハラ。独立してからの失敗体験。これまで歩んできた経験を生かして、人の役に立つことはできないものか?これが「天職デザイナー」という仕事を始めるきっかけになった。天職とは「心からたのしいと思える仕事」のこと。心からたのしいと思える仕事は自らの手で創り出そう!そんな想いで名付けた肩書きだった。それまで右往左往した独立起業に一本の軸が立った。
 
まず個別で相談を受けることにした。併行してセミナーも始めた。一人またひとりと悩みながらも志をもつ人とのつながりができていった。「一人で考えていても答えは出ない。同じ想い、同じ志をもつ人と人をつなぐ場をつくったらどうだろう」こうしてできたのが天職塾である。天職塾ではじめて開催した暑気払い。僕とあと2人のメンバーの3人でささやかに始まったことを今でも思い出す。月1回定例で集まる場を軸に起業コンサルを組み合わせて事業としてまわり始めた。試行錯誤の末たどりついた起業して3年目の頃だったと記憶する。石の上にも三年とはよくいったものだ。あきらめずにやり続けてきて良かったと感じた。
 
起業して4年目に入った頃、日々書き続けていたコラムを読んでくれたとある出版社からのオファーで著書を世に送り出すことになった。「三宅さんが今までやってきたことをまとめてください」そんな依頼だった。がむしゃらに突き進んできた自分を振り返るのにも良い機会をいただくことができた。この一冊が僕の事業を大きく加速させることになった。
 
「三宅さんの本を読んで会いたくなりました」こんな言葉をかけてくれる人が何人も僕のもとを訪れてくれた。こうして地道にコミュニティは増えていった。独立して7年目を迎える頃には160人を超える器に育っていった。マンツーマンで始めた起業コンサルもチームコンサルに発展。卒業生は80名を超え、起業離陸したメンバーは40名近くになる。お客さまであり、教え子であり、仲間であるメンバーのおかげでここまで来ることができた。「仲間との応援力」これに勝るものはない。
 
サラリーマン23年から起業して6年、本当にすったもんだの人生だった。その時その時は何でこんな目に遭うんだろうと嘆いたこともあった。落ち込んだこともたくさんあった。でもこのすったんもんだがあったから今がある。「人生には意味のないことなんて一つもない」振り返ってそう思う。
 

家族あっての自分

これまで52年間生きてきた。半世紀を超えたことになる。若い頃、50代は相当なおっさんだった。その年齢になったとは不思議な感じだ。見た目は老けても気持ちはずっと少年のままのつもりでいる。サラリーマンとしてはアップダウンの多い人生だった。起業してからも浮き沈みの連続だった。これからも続いていくことだろう。
 
そんな中、今自分がこうして立っていられるのはひとえに家族のおかげだ。「一日の売上ノルマ○万円!」と部屋のホワイトボードに板書きされたり、「今日はいくら稼いできたの?」と手荒な檄を飛ばす子供たち。そう言いながら仕事で何か異変を感じたら自分の事のように心配し励ましてくれてきた。そしてこんな紆余曲折の人生をやさしく、ときにきびしくすべてを受け容れ続けてくれた妻。僕にとって家族は何者にも代えがたい宝物だ。家族と一緒にバカ言って笑顔でいられることが何よりもしあわせ。このしあわせの場を続けていくことが僕の使命でもある。
 

近未来へ向けて

今こうしてたまたま起業の学校を運営させてもらっている。でも起業する人を育てたくてやっているのではない。それよりも「新しい働き方」をつくり出したいと思っている。そのことがその人にとっての「新しい生き方」をつくることにつながるから。その手段として起業があるというだけのことだ。
 
目指すのは「日本版フリーエージェント社会を創る」こと。フリーエージェントには4つの定義がある。「自由であること」「自分らしいこと」「責任をもっていること」「自分サイズのしあわせをつかむこと」。これまでの人生で自由なときは元気だった。逆に自由を奪われたときは元気を失った。自分らしく生きているときはいきいきしていた。逆に自分らしさを失くしたときは落ち込んでいた。
 
自由に、自分らしくだけで好き勝手にやろうということでない。自分として社会や家族に対してきちんと責任をもつこと。愚直にコツコツ積み上げていくこと。その結果として自分サイズのしあわせを手に入れる。それがフリーエージェントとして働き方。僕にとっては自分サイズのしあわせは家族の笑顔だ。自分サイズは人によって違うもの。自分の価値観に合ったしあわせをつかんでほしいと思う。
 
ゼロから創る。道なき道を切り拓く。人が考えないようなことをやる。フロンティア精神。それを実現するために仲間をつくる。メンバー一人ひとりにフォーカスする。個性を輝かせる。多様性を取り入れる。想いを共感する。未来ゴールを共有する。そしてチームができる。一体感がある。達成感がある。笑顔があふれる。こんな言葉に心が躍りわくわくする。これからも前を向いて歩み続けること。それができる人生でありたい。とはいえ人生何があるかわからない。一日一日をたのしく大切に過ごすこと、これが一番だと思う。毎日をたのしくワクワクしながら生きる!そんな仲間を一人でも多く増やしていきたい。
 
2016年4月20日 八ヶ岳にて筆を置く